小早川秀秋という人物

11 08 2009

先日観た大河ドラマ「天地人」で、上地雄輔演じる「豊臣秀俊」なる人物が出てきました。この人物こそ、後の関ヶ原の合戦で勝敗を左右した「小早川秀秋」です。実は、私がそのことを知ったのがこの番組でした。それまでは、日和見の裏切り者としての人物像でしかなかったのですが、実は悲劇の大将でもあったのですね。元は秀吉の甥で、子どもに恵まれない秀吉の養子となって可愛がられていましたが、「拾(後の秀頼)」が産まれた途端に秀吉の態度が急変。疎まられるようになり、毛利家の重臣「小早川隆景」の養子に出されてしまいます。その後朝鮮出兵に参加するも、帰国後に石田三成から「大将の器ではない」とされ減俸。この境遇に対して秀秋は三成を恨むこととなります。この時家康から三成に減俸を留まるよう口添えされたこともあり、家康に好意を持ち始めたとも考えられます。ただその後の行動は不可解なことが多かったことは否めません。家康とはっきり対立した三成は各大名を味方につけようと必死で、秀秋にも魅力ある恩賞(関白の地位)の約束を取り付けます。しかし当の秀秋は家康に味方しようと考えていたらしく、行動に出ようとするも入城を拒まれ、やむなく西軍に加担した感があります。そんな訳で伏見城攻略に参加したのですが、その手柄は認められなかったと言われています。それは東軍に内通していると疑われているからでもありました。が、兵力の大きい秀秋を三成は何としても味方にしようと何度も手紙で促します。そんな三成の心とは裏腹に、秀秋の心は既に東軍加担にあったようです。(その証拠の一つとして既に家康から監視役が派遣されていました。)それでも関ヶ原の合戦時になかなか動かなかったのは、戦い開始時は西軍が優勢に見えたのと、東軍本隊が合戦上に姿を現していなかった(東軍本隊率いる徳川秀忠は、信濃の真田昌幸に足止めを食らっていました)ことで、東軍に不信感を抱いていたとも考えられています。結局家康からの威嚇発砲により東軍として参加することになりましたが、この日和見的な選択が後の悲劇を招いてしまったと言えるでしょう。戦功は認められるも、周囲からは冷たい視線を浴びせられ、精神的に参ってしまった(それが原因かは分かりませんが)秀秋は21歳という若さで死んでしまいます。そして跡継ぎがいなかった小早川家は取り潰されてしまったのでした。

そんな秀秋でしたが、今回の天地人を観て、小早川秀秋という人物についてもっと知りたいと思いました。小早川秀秋について書かれた書籍もあるので、是非読んでみたいと思います。

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